02後期 沢パーティー合宿part2

海岸歩き・西表島海岸めぐり


【日時】
03年3月7日〜13日 6泊7日 4人


【行程】
1日目 南風見田浜…大浜(CS1)
2日目 大浜…鹿川(CS2)
3日目 鹿川…ウビラ石…幸滝(CS3)
4日目 幸滝…野浜(ヌバン)(CS4)
5日目 野浜で沈(CS5) 6日目 野浜…ケイユウオジイとシロの浜(CS6)
7日目 ケイユウオジイとシロの浜…イダ浜(下山)
    

海岸時代

 沢で6 泊もしておいて言うのもなんだが、西表での合宿は海岸歩きがメインである。いくつものトロをこえ、何匹ものヒルを焼き殺し、お化けのようなアダンや、鋭い針のついたツルを初めとする亜熱帯の薮との死闘が繰り広げられる沢とは違って、海岸歩きは楽しいものであり、コースタイムも3時間くらいで短い。干潮を狙って歩き始め、海蛇やルリスズメダイなんかを横目で見ながらリーフの上をバシャバシャ歩き、早々とテン場についた後は、砂浜に寝転んで読書して、暑くなってきたら青い海の中を泳ぎまわり、イソギンチャクとクマノミの共生とか、やたらと派手な色の熱帯魚とかエラブウミヘビとかウツボとか、まるで「生き物地球紀行」のような世界を見ながら沖に泳いでいって、ふと気がつくとリーフの外側に出てしまっていて下を見ると一気に切れ落ちていて、こんな透明度なのに底が見えないなんていったい何十メートルあるんだ?とすこし怖くなって戻ったりしながら、夜は流木を集めて焚き火をすると海からの風で信じられないくらいでっかい炎があがって、そいつでカサガイとか魚を焼いて泡盛を飲み、眠くなったら満点の星空の下砂浜にギンマ引いてシュラフで寝て、朝には日の光で目覚めて、また昨日の繰り返しといった具合の天国生活である。

 さて、一週間かけて西表島を文字通り縦断したわれらが沢パーティーも、猪の刺身と焼肉をたらふく食い、一日の中日を置いた後この天国生活に突入した。

 ちなみにこの、PART1とPART2の中日というのも西表合宿の楽しみのひとつである。何が楽しみかというと、何もしないことが楽しみなのである。

 まず、朝起きて、すでに朝ご飯ができているのがうれしい。飯盒を出したり水加減したりしなくていいのがたまらなくうれしい。これは一週間にもわたるPART1あってこそ分かる喜びであろう。その後部屋に戻ると、のはら荘になぜかおいてある「空手バカ1代」をよみながら、玉盛スーパーで買ってきたお菓子を食べ、昼になったら喫茶「南国」でランチを食べて、お土産を買ったりしながら夕飯までごろごろ過ごすのだ。

 それから、のはら荘の隣には「もりもと工房」という民芸店がある。ここは昔、西表で合宿する時現地連絡本部をしてくれていたところであり、先輩がたがずいぶんとお世話になったところである。我々はここの親父さんに「京大ワンダーフォーゲルだろ?」と一発で看破されてしまった。なんでも「君らの先輩たちも同じような雰囲気だった」かららしいけど、これはいささかショックであった。

 さて、こうして中日を過ごした後、例のうれしくてたまらなくなる朝食を腹いっぱい食べ、のはら荘のおっちゃんに車で南風見田まで送ってもらった。

 沢の最後でものはら荘のおっちゃんに迎えにきてもらったが、実を言うと前西表リーダーの伊藤さんから「迷惑を掛けるといけないからあんまり車で送ってくれとか頼むんじゃないぞ」と言われていたのだ。しかし沢の終わりではすでに夕方になっていたし、南風見田から大原までは去年歩いたがとてつもなく長く、ヒッチしようにも車がほとんど走っていない。そして面子を見てみると南風岸岳までの薮漕ぎで消耗しきっていて、砂浜をうつむきながらとぼとぼと歩いている状態であった。さらに浜には海ガメの死体まで打ち上げられており、ますます沈んだ気分になってきて、ここはなんとしても車で帰りたい気分になり、電話で今晩の宿を予約するついでに迎えにきてもらえないか、と頼んだのであった。

 しかし、今回はじめて分かったのだが、この「車での送迎サービス」はちゃんと料金を取られる、のはら荘の正規のサービスであった。料金は一回千円である。歩いて南風見田まで行ったとしても、おそらく途中の玉盛スーパー支店でアイスやジュースを買って、全員あわせて2000円以上は使うことになるであろうからこの値段はかなりお得である。もっとも後に登場するヨースケさんによると、この玉盛スーパー支店のレジのおねーさんは結構きれいな人であるらしいが...。

 ついでに言うと、伊藤さんを初め去年の上回生はのはら荘が一泊5000円であると信じて疑わなかったが、実は4500円であることが今回判明した。そういえば、去年清算したときに、3泊で一人15000円ずつ払ったところいくらかお金が戻ってきて、みんな首をかしげたことがあった。出口さんあたりから、「キャッシュバックだろう」と言う説が飛び出し、みんなも多分そうだろうなあと思いながら打ち上げ代の足しにしたが、あれは、なんのことはないただのお釣りであったのだ。考えてみれば当然の話で、のはら荘みたいな民宿がキャッシュバックキャンペーンなんてするはずもなかったのだが...。

 ともかく中東に行ってない方の夏目さんを一人犠牲にして、我々は南風見田の浜に降り立った。9:30くらいであったが、干潮は11:00くらいであったので浜の反対側にある「忘れな石」を見に行ってから出発することにした。「忘れな石」とは戦時中波照間島から西表島に強制疎開させられた人たちが、マラリアに集団感染し、多くの人が故郷の島に帰ることなく死んでいったなか、生徒を失った一人の教師が刻んだ石である。波照間の見えるこの浜に作られた石碑には、マラリアで命を落とした島人の名が刻まれている。

 だいたい1時間くらいで「忘れな石」見学を終え、平和のありがたみをかみ締めながら、丁度イラク情勢が緊迫しているところだったから、俺たちが山から下りたら戦争がはじまっているんじゃないか、とか思いながら出発の準備をしたのであった。

 後にいう「南風見田ビキニ」事件が起きたのはこのときである。事件といっても、なんのことはない、ただ我々の前をビキニ姿のお姉さんが通っただけであるが、一週間以上男4人で朝から晩まで一緒にいる我々にとっては非常に新鮮であったのだ。どれくらい新鮮であったかというと、みんなお姉さんが見えなくなるまで見送り、我らのセカンド兼カメラマンのさわやか吉田が望遠レンズを持ってこなかったことを悔しがったくらい新鮮であった。

 「立派です。」はこのとき吉田がお姉さんを見てつぶやいた言葉であるが、みんなこの表現が気に入り、「沖縄本島に行けば立派な人が沢山いるんじゃないのか?」とか「星砂の浜まで行けば立派な人もいるだろう」とかさんざん使われることとなった。

 そんなわけでみんな忘れな石やイラクの事なんかすっかり忘れて我々の海岸時代は幕をあけたのであった。


自然起床と米炊き抗争

 さて、南風見田ビキニのおかげで好スタートを切った初日であったが、そのあとはひたすら暑かったことしか覚えていない。さっき「天国生活」とはいったものの、天国まで行くにはやっぱりそれなりの行いが必要なのである。大潮の干潮であれば、リーフの上を歩くことができるため格段に楽だが、6泊もあると多少潮が小さいときに入らざるを得ない。さらに後で判明したことだが、我々、というかCLは潮見表を見間違っており大潮から少しずれて入山してしまっていたのだ。今後潮見表を見るときは12:00と午前0:00の違いに注意するようにしたい。

 とにかく3月の西表は晴れれば30度近くまで気温が上がることもあり、その中で日陰も無いゴーロを歩くのは3時間とはいえ非常にきつい作業である。この日は30分ごとにレストを繰り返し、15:00くらいに大浜に到着した。

 大浜は南海岸の中でもゴミもあまり無くきれいな浜である。また俺と樋口にとっては去年の沢合宿の終了した思い出の浜である。もっとも規模で言えば今年も同じくらい長大であるが、初めての西表で1週間ジャングルをさまよい、6日目にしてようやく海岸に出れたときの感動は最高であった。大浜で寝たあの夜は風も無く、静かで、それでも強烈に印象に残っている。

 そういうわけで、去年の海岸もあわせてこれが3度目の大浜であった。

 さて、初日は全く事件も無く、いつもどおりの夜を迎えた。風は少しあったが、雨も降らなさそうなので外で寝ることにする。もちろんテントも張ってあったが、砂浜で寝る、というのは海岸歩きで楽しみにしていたものの中のひとつである。砂浜には空をさえぎるものも無く、潮の音を聞きながら南の島の満天の星空を眺め、思いっきり身体を伸ばして横になるのは最高に素敵な時間だ。「ひょっとして俺は今、かけがえのない時間を過ごしているんじゃないか」というような思いにとらわれて、逆になんだか切ない気持ちになったりしながら、ああやっぱり西表に来てよかったなあ、沢メンやっててよかったなあと思うのである。

 そんな感慨にふけりながらも、結局は眠りにつき、翌日は8:30頃目がさめた。

 「自然起床」こそが、海岸が天国生活たる大事な要素である。海岸歩きは干潮を狙って歩くので、大体出発は10時から11時くらいになり、そのためわざわざ早起きする必要が無いのである。

 これが沢であったら、まだ日も昇ってない5時ごろに電子音で起こされ、とりあえず身体を起こして面子に「起床。」と言い、起きたもののシュラフなかなかたたもうとしない面子を急がせるために、真っ先にシュラフをたたむという作業が必要である。もっとも自分は朝くらいゆっくりしたい派であり、1時間出発を目指したり、はたまた45分出発に執念を燃やしたりと言うのはあんまりやる気がしないものだ。しかしながらリーダーになるとそうもいってられない。言うまでも無く出発の平均タイムは1時間半であり、1時間で出るとなかなか優秀だぞと言う事になり、逆に2時間を越えると、何をたらたらやっているんだリーダーは何をしていると役員会でお兄様方に怒られることになる。しかし、PART1において朝はことごとく2時間出発であった。これはいかん、何とか出発を早めなければと思い、率先してシュラフたたみ、飯盒を火にかけるようにしていたのだが、ある朝あんまり俺ばっかりやっていると教育上よくないのではないかという思いにとらわれ、いくらなんでも3人いれば誰かやってくれるだろうと飯盒を出しただけで用足しにテントの外に出て行ったのだが、帰ってみると樋口、吉田、クニの3人は飯盒を中心にお互いを牽制しあっており、米すら入れられていない状態であった。あれはほんとにがっかりしたが、みんなリーダーが急ぎたがっているのも、そのわけも、何でテントから出て行ったのかも分かっていたようで、翌日から飯盒に何本かの手が伸びてくるようになった。

 まあついでに言っとくと、朝に関してはそれほど急ぐ必要はないけど、早いにこしたことは無いというのが結論だろうか。朝は弱い方だし、コーヒーや紅茶のいっぱいくらいは飲んで出たい。しかしながら、いざとなればリヒト山行という裏技が使える縦走と違って、日が暮れると全く動けなくなる沢登りにおいては「あと30分あれば...。」というような経験は少なくない。実際今回のパーティーもあの黒石谷でそんな経験をしている。それを考えると朝の30分も決してバカにはできない。柳川さんは「1時間で出るのもひとつの技術」といっているが、そのとおりであり、いざとなったら必ずできるようにしておきたいものである。池田リーダーのように起床と同時に外に出て行ってフライをはずして回ったり、冷や飯をそのまま食べたりしろとまでは言わないが、(あれはあれですごいとおもうが)時間の大切さみたいなものは認識しておく必要がある。

 さて、そんなあわただしかった沢の朝と違い、海岸で我々を起こしてくれるのは朝日と波の音である。いつもどおりの朝食の後、池田が見たら失神しそうなくらいのスローペースで撤収が行われていった。


全裸飛び込み男ヨースケさん

 日も高くなり、そろそろ出発しようかというころ、大浜の東に一人の人影が現れた。その影はだんだんと我々のほうに近づいていき、予想にはずれず男であると分かった。影は名大WVのSLをやっていると言うゲンさんであった。

 名大WVからうちに西表の資料の請求がきたことは知っていたが、彼の話によると、CLが怪我をしてしまったらしく、入山できなかったらしい。それで星砂の浜に2泊したあと、船浮や白浜にいっただけでパーティーは解散し、彼一人海岸歩きをしていると言うことだった。

 30分ほど話をしたあと先に出発した。彼も今日は鹿川まで行くらしい。

さて、この日も前日と同じようにゴーロ歩きである。ただ潮もだいぶ引いておりリーフの上を歩くことができたのでだいぶ楽であった。

 鹿川までの道のりには、一応クイラ渡りとか危険箇所とかあったものの、クニが海蛇に急接近されたりしたくらいで特に事件も無かったので話を鹿川まで飛ばすことにする。

 鹿川は、大浜から続いていた南海岸が落水崎に向けて直角に曲がるその曲がり角にあたるところであり、すこし特殊な浜である。何が特殊かというと、西表の他の砂浜のようなリーフが無く、砂浜からいっきに深くなっているのだ。このためかは知らないが、ここは魚も多く、過去我がワンゲルのサバイバル合宿が行われたこともある歴史のある浜だ。

 またここにはカヌカガイと呼ばれるここでしか取れない貴重な貝が取れるところでもあり、赤やオレンジのその貝殻は一昔前なら4000円くらいで取引されたらしい。

 もりもと工房のおじさんの話によると、この貝はヤドカリが持っていることが多いらしく、夜のうちにアダンの下かなんかに残飯を撒いておき、ヤドカリが行動する朝早くにそこに行って、カヌカガイをもったおしゃれヤドカリを探すそうである。このやり方を早速実行してみたが、場所が悪かったのか、残飯が悪かったのかヤドカリは一匹も集まっていなかった。

 さてそんな鹿川であるが、我々がついたときには他のパーティーの影も無く、木陰にザックを下ろして思い思いの時間を過ごしていた。3台のカメラを使いこなすカメラマン吉田はせっかく買った水中カメラを使いたいらしく、クニをしきりにさそっていたが、クニはあまり気の乗らないようであった。

 仕方なしに吉田は一人で海に向かったのだが、そのとき一人の人影が島の奥の方からあらわれた。その人はこっちに軽く会釈してから浜にぽつんと生えているアダンの下にザックを下ろしおもむろに服を脱ぎはじめ、たちまち全裸になると波も結構高くなっている海めがけて全速力で走りだしたのであった。そして波打ち際まで走ると陸上の3段とびの要領で海にむかってジャンプし、白波の中に着地した。それは吉田いわく「黒い稲妻」のようであったという。

 一晩ながら我々の心に強烈な印象を残したヨースケさんの鮮烈なデビューであった。

 その後、迫り来る波に水泳選手のスタートなみの飛込みを何度かしたあと、彼はこっちにやってきた。初登場時の衝撃とは逆に、話してみると実に気持ちのいい穏やかな人であった。5時くらいになると名大のゲンさんも現れ、我が沢メンは久々のゲストを迎えて焚き火をすることになった。

 現地で人と知り合うのはなんともいえず楽しいものである。特に沢登りや海岸では人と会うこと自体稀であり、その分のお互いに「こんなところに来る人が俺のほかにもいるんだ」といううれしさや、同じ場所の同じ危険を経験したという連帯感から話をしたくなるものである。

 実力派食当クニの作った和風ポトフはゲンさんとヨースケさんにもふるまわれ、かわりにゲンさんからういろう、ヨースケさんから自家製ドレッシング漬を貰った。

 なんでも名大WVの合宿ではういろうが標準装備であり、現地でお世話になった人にあげる習慣があるらしい。桜色のういろうはみんな平等に切り分けられ、泡盛とさんぴん茶はますますおいしくなった。

 ヨースケさんは本島の人で、変に間延びするゆっくりとしたしゃべり方をする人であった。友人に白浜でキャンプ大会なるものが行われ全国からたくさんの屋外生活人が集まり、そこでは食事がただで支給されると聞いて西表にきたものの、そんなものが開催される気配は無く、仕方ないのでイダ浜からこっちまで回ってきたということである。ヨースケさんの食事はちょっと変わっていて、いろんな野菜をハチミツと市販のドレッシングでつけたものと、小麦粉を水で練って平たく伸ばしたものを焚き火の灰の中に入れて焼いたナンのようなものを食べていた。朝昼晩と食べるらしくそのたびに焚き火を燃やさないといけないらしいが、結構おいしいものであった。

 今考えるとこの晩の焚き火は、ゲストの存在といい天気といい海岸歩きの中では一番楽しいものであったかもしれない。そもそも6泊中焚き火ができたのは最初の3日だけであったが...。他愛の無い話で盛り上がりながら、西表の夜はいつもと同じように更けていった。


野生食生活

 楽しかった夜も明け、3日目の朝もいつも通りの自然起床で目がさめた。

 沢よりも、そして京都よりも確実にゆっくり流れている時間の中で相変わらずの遅い撤収の後、さらに南に向かって鹿川を出発する。

 川岸ではヨースケさんが座り込み例の小麦粉を練って朝食を作っていた。今考えるとこれがヨースケさんを見た最後の姿である。連絡先というか名字さえも聞かなかったが、山での出会いなんてそれでいいと思う。

 ゲンさんもツエルトから出て見送ってくれた。

 この3日目の行程は自分としてみては一番楽しみな部分であった。というのも去年の海岸歩きでほとんどの海岸は歩き尽くしてしまい、唯一行ってないのがこの鹿川から落水崎、ウビラ石を通ってヌバンに回るコースであったからだ。

 相変わらずの暑さの中ゴーロ歩きを続ける。思えばこの初めの3日の暑さを後半の3日に分けてあげたいものであった。

 さて、さらにこの3日目のルートは今回の合宿中においても危険箇所の多い難しい部分でもある。速乾パンツを持っていないわれらのTOP樋口軍曹は基本的に海岸のゴーロを歩いていったのだが、何箇所か通れずにリーフに降りて水の中を歩く場面があった。確かに干潮でないと通過できないようだ。

 この日は潮もだいぶ引いていて、大体ひざくらいの水深だったが、波が高く、ときおり胸くらいまで水をかぶることになった。そのたびにみんな(樋口以外だが)は「オォーい。またかよ!」とか「オォーい。勘弁してよ」と樋口のマネをしながら進んでいったのであった。

 危険箇所も難なく過ぎ去り、ウビラ石こがどこか分からないまま無事にCS3まで着いたのだが、途中クニが魚を一匹しとめるという事件があった。

 潮もだいぶ引いてきたのでリーフの上をバシャバシャ歩いていったところ、前方に魚の群れが飛び跳ねながら逃げていくのが見えた。このとき水深はくつの上くらいしかなく、その魚たちはリーフのすこし深くなっているところをやっとこさ逃げ回っている状態であり、そのいっぱいいっぱいな魚の一匹を、樋口から愛槍「グングニル」を借り受けたクニが貫いたのだ。

 このときのクニの槍使いはなかなか芸術的であった。浅瀬をやっとこさ泳ぎまわっていると言っても、その魚は決して止まることなくかなりのスピードで動き回っていたし、そいつがクニの横に回りこんだ瞬間、振り向きざまの不安定な体勢から一撃で貫いたのだから。クニの手から射出された槍(と言うか銛)はゴムの弾性力も借りて水面につきささり、次の瞬間槍の先で魚体が踊るのが見えた。

 本州でいうところのチヌのようなやつで、図鑑で調べたところミナミイスズミと言う魚であった。珊瑚礁帯を群れで泳いでいる魚らしい。

 ちなみにグングニルというのは樋口が石垣で買った銛のことである。去年と違って麻雀ができないため、今ひとつやる気の出ない樋口も、そいつでひとつ西表のバカな魚たちを乱獲してやろうというわけである。

 面子が何かやる気を見せてくれるのはリーダとしてもうれしいことであり、なにより樋口は常に落ち着いて、めったなことでは慌てない、というかすばやい動きを見せない男である。柳川さんなんかもいつも落ち着いているが、去年の石垣島での打ち上げのときに、わさびをそのまま食べて転げまわるというすばやい動きを見せてくれたし、(この人がコミカルに動くところを見たのはこれが最初で最後であろう)なによりあの人は空手家であり、その気になれば我々の動体視力では捕らえることのできないほど早く動けることは疑いようも無い。一方樋口は2年ちかくの付き合いの中でもいつも落ち着いた動きで、まったくすばやく動くことは無かった。いつかこの男を慌てさせたいというのが俺のひそかな野望である。

 その樋口もさすがに海の中を自由に泳ぎまわる魚が相手では、今まで封印してきた俊敏な動きを見せざるを得ないであろう。この「俊敏な樋口」みんな期待していたのだが、残念ながらグングニルの犠牲となったのはこのクニの1匹のみであり、当の樋口はと言うと槍を輸送するのみで一度も海に潜ることは無かった。

 ついでに言うとこの銛で魚を突くと言う捕らえ方は、メジャーなようでいて実際に見たのはクニの一匹がはじめてであった。地元の人たちは結構簡単にこの方法で魚を取っているが、どうやら満潮時にリーフの上で泳ぎながら取っているらしい。クニがやったように干潮時に逃げ遅れた魚をとる方法もあるが、やはり大物をねらうなら泳ぎながらだろう。難しそうだが、練習すれば結構簡単に取れるらしい。

 それから、岩礁地帯で岩にへばりついているカサガイを何個か取って歩いた。カサガイは岩にへばりついた、あわびを小さくしたようなやつで、海岸ならいたるところに見ることのできる貝だ。サバイバル時代には「例の貝」と呼ばれ主食にまでなった貝である。そのころの記録を読むとそんなに美味しくないとされているが、実際は結構美味である。取り方はカサガイと岩の間にナイフか磯ガネをスッといれ一気にはがしてしまうやり方が一般的だ。カサガイが油断している隙に一気にやるのがコツである。簡単なようだけど、カサガイに気付かれると彼らは水を噴出して岩にへばりついてしまい、そうなるともうどうやっても取れなくなる。一度吸い付いてしまうと例えナイフが入っていても岩からはがすことは不可能である。無理にやろうとすればナイフが折れるだろう。

 条件がそろえば、カサガイの貝殻ごと蹴っ飛ばしてしまうのが一番楽でいい。油断しているときのカサガイは横方向にはわりと簡単に動くものだ。

 食べ方であるが、塩茹でして薄くきって醤油をつけて食べるか、網焼きにして醤油をたらして食べるのがいい。ワタまで食べるかは好みが分かれるところだが、自分としては取った方が好きだ。

 初めて食べたとき、あわびやサザエに似た味だと思ったが、2年目になるとやっぱりカサガイの味であった。おそらくサバイバルの人のように主食として毎日食べているとそんなに美味しく感じなくなるのだろう。しかし酒のつまみには最高なので海岸に行ったらぜひ食べてみるといい。

 さらに途中で、ウツボがカニを飲み込もうとしているところに出会った。ウツボもカニも海岸ではよく見かけるが、どちらも食べたことは無い。と言うのも、まずカニであるが、西表で食べてはいけないものの中ではダントツで一位である。その理由はもちろん毒があるものがいるからであるが、その毒の強さは半端なものではなく、あのふぐ毒のテトロドトキシンに匹敵するほどのものらしい。食べないのはもちろんのこと、何かのはずみで口の中に入ったりしないように注意することが必要だ。そんなことは無いと思われるかもしれないが、カニの中には明け方テントの中に侵入してくるものもいるのである。去年のヌバンで一回生のテントはこんな特殊部隊カニの侵入を許してしまい、高梨は顔の上を這いまわられるという攻撃を受けた。たまたま迷いこんだのではという気もしたが、翌日もテントの布越しに侵入しようとする節足動物系の足が見えたので、やはり狙ってきているらしい。

 それからウツボだが、潮の引いたリーフなんかでは簡単に捕まえられそうだが、シガテラ毒を持っている可能性もあるので注意が必要である。このシガテラ毒というヤツは珊瑚礁の海に住む毒性をもったプランクトンが生物濃縮とかなんかで圧縮されたもので、フィッシュイーターというか肉食の魚でかなり大きい固体の場合どれも持っている可能性がある。早い話、こいつは今までたくさんの小魚を食ってきたんだろうなとか思われる魚であんまり巨大なものは食べない方がいい。

 しかしまあカマスやカスミアジを食べることを考えれば、ウツボも小型のものなら食べてもよさそうな気がする。もっとも味は保障しないが。


やけどと樋口の米

 さて、一匹の魚と数個のカサガイを携えながら4時前に我々はCS3である幸滝に着いた。

 このテン場は砂浜ではなく、岩壁の間にある平らなスペースにやっとこさ4テンひとつ張れるくらいの場所である。あんまりいいテン場ではないが、丁度西に向いた海岸の真ん中にあり、海に沈むきれいな夕日が見えるところである。

 そんな理由もあってこのテン場を選んだのだが、結局夕日は見ることができなかった。何とかぎりぎり晴れていたのだが、丁度日が沈むところに暑い雲が出てきて太陽をさえぎってしまったのだ。幸滝の上見る景色はすばらしく、それだけに本当に残念であった。

 このテン場でも、いつもと同じように夕飯を作りながら焚き火をしていたのであったが、俺が指をやけどしてしまうと言う事件が起こった。

 直火で熱くなった飯盒の取っ手うっかり握ってしまったのだ。やけどした瞬間、なんてバカなことをしたんだと猛烈に後悔し、同時に役員会で俺の作った医療レジュメにやけどの欄が無いと目ざとく見つけて訂正させられたあの男の顔が思い浮かび、あいつは顔に似合わず結構細かいよなとか思ったものの、やけどしてしまった後になってはもう遅く、とりあえず水ぶくれになっているようだが、医療レジュメを見るのもシャクなのでとにかく冷やすことにした。幸いテン場の上には幸滝があるので冷やすのは簡単である。

 痛みが引いて戻ると丁度ご飯が出来上がっており、クニがニコニコして「斉藤さんがやけどを冷やしている間に、なんと樋口さんがご飯を炊いたんですよ。」と報告してくれた。

 何度も言うが樋口は基本的に面倒くさがり屋さんである。追い詰めら無い限りめったに行動することは無く、また追い詰められてからが樋口の真骨頂であるともいえる。とにかく今回の合宿においても樋口が自分から米を炊き始めることは無かったため、一回生は驚いたようであった。

 樋口にしてみれば米を誰が炊くかなんて別にたいした問題ではないといういかにも彼らしい考えに基づいているのであろう。しかし、ある朝いつものように朝飯を炊くとき、飯盒と米と水をまえに4 人で牽制しあっていたところ、樋口がおもむろに飯盒のふたを開け、それに一回が驚いて「樋口さんが飯盒のふたを!」と叫んだことがあった。さすがに、おいおい言いすぎだろ樋口だってそりゃ飯盒のふたくらい開けるさ、と思ったが、この時ばかりは樋口も反省したようであった。

 やけどと樋口に関してもうひとつ話がある。俺が夕日を待ちながら幸滝でやけどを冷やしていたとき、テン場の方から樋口が現れたのだ。

 正直言うと、俺はてっきり彼は水汲みにきたか、干してある服でも取りにきたのかと思っていたが、しかし彼は俺に「大丈夫か?」と尋ね、俺が大丈夫であることを告げるとそのままテントの方に戻っていった。

 そこで俺は初めて、樋口が自分のことを心配して様子を見にきてくれたことに気付いた。

 なんと言うか人と人との信頼が作られるのはこういう瞬間なんだなと実感した出来事であった。


  くもり時々雨沈

 やけども幸いたいしたことは無く、朝ぱらぱらと雨が降っていたものの、出発間際には何とか止み、昨日から強くなってきている風のなか4日目の行動は開始された。

 海岸に入った当初は暑くてしょうがなかったのに、ここに来て我々は天気から見放され、ついに合宿がおわるまで太陽をまともに見ることは無かった。

 一番晴れてほしいときに晴れなかったのである。

 この日は3時間ほど行動し、晴れ沈する予定のヌバンに着いたらそれから2日間のんびりと過ごすという、いよいよ本当に天国生活が始まるんだ、というような1日になる予定であったが、昼ごろヌバンに着いた我々を待っていたのは冷たい海と強烈な風であった。

 ヌバンは西海岸の端にある浜で、人の集落からは(後に出てくる城崎村は別として)最も遠いところにある浜である。そのためさんご礁も綺麗で魚も多い。去年もここで晴れ沈したのだが、やっぱり他の海岸と比べても一番印象がいいところなので今年もここにすることにしたのだ。水が無いことが欠点とされていたが、去年夏目の捜索で南側の涸れ沢を上ったところに水が発見され、丁度テン場にぴったりな場所もあってもはやここしかないという状況であった。

 しかし結論からいって今年のヌバンには期待していたような天国生活は無く、到着した当初の強風と、時折雨の降るくもり空が2日間続いただけであった。

 我々は4日目に着いてすぐテントを張り、飛ばされないように固定した後その中に逃げ込み、ほとんどそのまま2日間をすごした。晴れ沈でやったことといえば、時々俺が釣りに出ていく他は、吉田が南の岩壁でボルダリングをやったりするだけで、樋口とクニにいたっては晴れ沈中に外に出たのは30分にも満たないありさまであった。

 4人パーティーで6泊7日を2回、さらに移動と中日を含めると20日近く一緒に行動、しかも合宿だから起きてから寝るまで、いや寝ている間もずっと一緒ということで、合宿の始まる前から「会話が尽きるんじゃないか?」といった心配が、内外から寄せられた。

 しかし結論から言って、そんなことはなかった。みんな20年くらい生きているんだから、話すことなんて過去を遡ればいくらでも出てくるものである。そんなわけで今回の合宿中テントの中でもいろんな話が飛び出し、諸葛亮孔明にあこがれた吉田がガキ大将に傘を折られた話とか、二度と語られることの無いであろう樋口の初恋話?など、いろんな話が語られたわけであるが、やはり海岸も後半になるとだんだん会話も少なくなってきたのである。特にこのヌバンの晴れ沈においてはほとんどテント中であり、2m四方の狭いスペースの中4人で過ごしていたため本当にすることがなくて困ってしまった。

 そんななかで開発されたのがこのヌバン式しりとりである。ヌバン式がどう違うのかというと、普通のしりとりと違って文章も許されるという点である。

 他に合宿中にはやったものの中に、ものまねがある。初めは我がワンゲル一回生の清水君のものまねが主流であった。まねしていたのはクニと吉田であるが、俺はこのものまねが気に入り、ことあるごとに「今のを清水で言ってくれ」と2人に頼んでいた。特にクニの方はかなりの熟練を見せており、一度「清水で野村をやってくれ」というかなり無茶な要求にも見事に演じて見せた。これは分かりやすく言うと、野村のものまねをしている清水のまね(逆も可)をクニがしているというところだろうか。聞いてみると確かに野村にも清水にも聞こえるという高難度のワザであった。

 そんなわけで西表の沢中いたるところに偽清水が出現し、俺と樋口にいたっては清水本人の声を聞いた回数よりクニと吉田の物まねを聞いた回数の方が多いというありさまであった。

 おかげで京都に帰ってからも清水の声を聞くとなぜか西表が思い出されるという、わけの分からない後遺症に悩まされることとなった。

 合宿中盤からは清水の他にメンバー自身のものまねもされるようになった。これはクニを除く3人それぞれにあり、まねするのはその本人をのぞく3人である。

 合宿も終盤になると、ものまねもネタが尽きて何でもありのバトルロワイヤルの様相を呈してきて、吉田と俺の高校の校長先生や、一度だけ講演に来た名前も分からない人まで参戦した。みんなオリジナルを知らないわけであるが、はっきりいって、もう面白ければ何でもよかったのである。

 そんなことをして晴れ沈を過ごしたのだが、他の時間はほとんど寝てばかりであった。暇つぶしの道具として一応クニが花札を持ってきていたものの、二回くらいでみんな飽きてしまい、それから一度神経衰弱に使われただけで、終いには麻雀がないことに我慢できなくなった樋口にばらばらにされて麻雀牌に作り変えられそうになる始末であった。樋口の中毒症状はこのヌバンでピークに達し、とにかく牌を作るから誰か紙と鉛筆をくれ、と騒いでおり、俺は彼が地図を切って牌にするんじゃないかと心配したが、それをしないだけの分別はまだあるようであった。


釣り生活

 ここで、かなり自分の趣味が入ってしまうが、西表での釣りについて書いておきたいと思う。はっきり言って興味の無い人(ほとんどであろうが)にとっては全く分からない話であろうが、俺にとって釣りは西表の海岸歩きの中で最も楽しみなものの一つである。こう書くと批判されそうだけど、西表の暑い日ざしと、美しい海に囲まれて白い砂浜の上で一日中麻雀をしていた去年のパーティーの人たちに比べるとずっと健康的であると思う。大の男4人が必死に砂の山を作る光景は、南風見田の浜の海水浴客にはかなり異様な光景であっただろう。4人が作ったものは、砂のダムでも城でもサンドアートとか言う洒落たものでもなく、麻雀の卓であった。ちっちゃい子が見ていたらさぞかしがっかりしたであろう。

 「何で西表にまできて打つんだよ。」と聞くと「お前だって何で西表にまできて釣りなんだ?」と言われたが、西表での釣り、特にマングローブの汽水帯でのルアー、フライフィッシングと船で外洋に出てのルアーフィッシングは雑誌に紹介されるほどである。つまり「西表に来てまで釣り」ではなくて「西表に来たんだから釣り」という論理も成り立つところなのだ。

 しかしながら我が沢メンは外洋に出るような船は所有してないし、カヌーやゴムボートも無いので汽水帯も無理である。陸から汽水帯で釣りをすることもできるが、マングローブ林での川岸に行くのがどんなに困難であるかは後に吉田が証明してくれることになる。

 ここでは実際に自分が釣りをして、さらにこれからのパーティーも釣りをする可能性のある海岸での釣りについて書いておきたい。(沢中でのつりに関しては前の章を参照)

 まず、もっていく道具だが、穂先の硬いリール竿と、リールが必要である。もっとも竿なんか無くたって、丈夫なテグスに針をつけてヤドカリをつけて投げ込めば十分つれるのが西表であるが、せっかくだからこれくらい用意したい。竿の長さは1.8mから3m位でいいので、折りたたむと30から50センチくらいになる船竿やルアーロッドが便利だ。パッキングにもそれほど邪魔にならないと思う。もちろん安物でいいんだけど、1mを超すハタや、青物なんかが掛かることもあるのでなるべくパワーのあるものにしたい。

 自分は餌釣りのセットとルアーを持っていったが、手軽で楽しいのはやはりルアーであった。

 まず、岩礁地帯でのつりについて説明する。ここは、ゴーロの合間にあるような海に岩壁がせまっているようなところで、「磯」といったかんじの場所である。具体的な場所は、大浜やヌバンのはじや幸滝といったところか。

 ここでは主に地元でミーバイと呼ばれるハタ科の魚がつれる。白に茶色のまだら模様のカンモンハタは、西表の釣り魚の中で最もポピュラーなものである。多分西表の子供が一番初めに釣る魚はこいつだろうというくらいよく釣れる。

 岩礁地帯でミノーを引いていると普通に釣れるが、だいたい20 から30センチくらいがよくヒットする。結構やる気のある魚で大き目のルアーのも食いついてくるし、根魚(海の底の岩など障害物についている魚)であるのにもかかわらず、水面のトップウォータープラグにもヒットすることもあるという。そこらへんのバイタリティーはぜひうちの面子にも見習ってもらいたいところだ。

 20から30センチがよくヒットすると書いたが、岩礁に住むハタ類の中には1mを超えるものもいるので油断は禁物だ。一度ルアーを追いかけて70センチくらいの黒い影が現れてルアーの手前で引き返していったことがあった。

 やはりでかいものほど慎重らしく、なかなかヒットしない。

 さて、次にテン場として一番利用される砂浜の場合だが、この場合干潮と満潮で釣り方も異なる。西表の砂浜はリーフに囲まれており、大潮の干潮時にはリーフがほぼ水面の上に現れる。干潮時にはそのリーフの外側で釣ることになる。

 昨年ヌバンで釣ったときには、このリーフの外側で、なかなかいい型の名前の分からない魚が結構釣れた。たぶんスズキ科の魚だと思うが、夏目がナイフで器用に刺身にしてくれたが、なかなかうまかった。

 潮の引いている2時間くらいの間に4匹釣れたから、なかなか数はいるようである。

 逆に満潮時にはリーフの内側に水が入ってきて、砂浜まで波が打ち寄せる。このとき水深は1mくらいしかないものの、リーフの内側に結構魚が回遊してきている。

 一番つれるのはカマス類。30 から40センチくらいで引きはそうでもないが、針がかりすると飛び跳ねまくる。カマス類で最大のものは「バラクーダ」とも呼ばれるオニカマスでこいつは 1mを超し、人を襲うこともあるらしいが、あんまり大型のものはシガテラ毒を有する場合があるので注意が必要だ。カマスは焚き火で塩焼きにするとおいしい。オニカマスは寄生虫を持っている場合もあるので生では食べない方がいいだろう。カマスが入ってきていると、水面を時折小魚が飛び跳ねて逃げているのが見えるので注意して見るとすぐわかる。

 さらにリーフの内側にはカスミアジが、回遊してくることもある。こいつは、引きといい味といい、海岸歩き最大のターゲットである。青物だけあって引き締まった魚体から来るパワーは大きさ以上に感じられる。ほんとにすんげー引く。

 食べ方は刺身がうまいけど、煮付けにしてもおいしかった。やっぱりアジというだけはある。

 リーフの内側で釣る場合、水深があまり無いのでルアーを選ぶのに注意する必要がある。基本的にフローティングミノーであればいいが、なるべく水面下ぎりぎりを泳ぐやつにしたい。あと、自分は試さなかったが、トップウォータープラグでやってもいいかもしれない。

 それから根がかりしてラインが切れてしまったときは、なるべく干潮のときに回収するようにしたい。リーフの中は結構人が歩くので足に針が引っかかったりすると危ないからだ。

 ルアー釣りに関してはこんなところだが最後に餌釣りにも触れておきたい。浮き釣りでも、投げ釣りでも基本的に今までルアーに関して言ってきたものと同じものがつれるが、いちばん簡単な仕掛けはジェット天秤にハリスをつけて、餌をつけて投げておくものだ。えさは、シャコかヤドカリがいい。貝類も使ってみたけど反応はよくなかった。ただシャコは、取るのが難しいし、取った後に前足をはじいて攻撃してくる通称「シャコピン」を食らう恐れがある。このシャコピン初めは面白がって撃たせてみていたが、実はクリティカルヒットすると指の先が切れて流血することもある恐怖の攻撃である。去年は高梨と柳川さんがこのシャコピンの餌食になった。その点ヤドカリならどこでもいるし、はさみを持っているとはいえ、よっぽど巨大なヤドカリで無い限り、人間に傷を負わせるような一撃を繰り出すことは不可能であろう。しかし、残念なことにヤドカリもそれは十分に承知しているらしく、またヤドカリがヤドカリであるゆえんであるが、、彼らは宿に逃げ込むのである。とにかくコイツを餌にするにはヤドカリをヤドナシにするという作業が必要不可欠なのだ。ヤドカリを貝から追い出すというやり方について、何かうまい方法があるのかもしれないが、自分が使った方法はきわめて原始的なやり方であった。つまり、物理的な力によって引っ張り出したのだ。

 まず、手ごろなサイズのヤドカリを手のひらに載せ、じっとしておく。このときもう片方の手で貝の入り口あたりをはさんでおくとよい。そいつが油断して出てきたところで、足とはさみを指でつまんで引っ張り出すのだ。

 こう書くと簡単そうだが、タイミングがずれるとヤドカリはすぐに貝にこもってしまうし、足の2、 3本をつかんだだけでは引っ張り出すことは不可能である。さすがにヤドカリも足が千切れるくらい引っ張れば痛がって出てくるだろうと思われるかもしれないが、彼らの覚悟はそんな生半可なものではない。「むざむざ引っ張り出されるくらいならむしろこの中で死んでやるぞ!」といった具合に、足が千切れようと腹が千切れようとも貝の中にとどまろうとするのだ。考えてみれば当たり前の話である。空手バカのように一撃必殺を目指したヤドカリでないかぎり、殻から引っ張り出されることは死を意味するのだから。

 さて、そんなヤドカリたちも体が半分出かかったところをつままれたり、また中途半端な覚悟で貝に入っていたりしたものであれば2, 3回やってみると、どうにか引っ張り出せる。しかし、ここまで書けばわかるだろうが、必死に貝にすがりつくヤドカリの姿をみているので、この「ヤドカリを貝から引っ張り出す作業」の時点で、ヤドカリに対しかなり申し訳ない気分になっている。しかしそうも言ってられない。何しろこれから、「裸になったヤドカリに釣り針を通してもらって、魚に食べられてもらう作業」というさらに申し訳ない作業が待っているのだ。

 西表でルアーばっかりやっていたのは、ルアーフィッシングのアクティブさが好きとかそういう理由の他にこういった事情がある。自分はヤドカリが結構好きなのだ。もっとも伊藤さんいわく、八重山名物イカの塩辛でもつれるということだが。

 まあいろいろ書いたが、つまり言いたいのは西表の釣りは楽しいからみんなやってごらんということである。釣りは海の獲物を取る最良の方法であるし、自然と触れ合う最良の方法は、自分で取ったものを食べるということであると思う。

 日常の中では省略されいるが、自分で取ったものを自分で殺して食べるというのは一番自然でフェアなやりかただ。


崎山村

 さて、そんな2日間を過ごしたヌバンにも別れを告げる朝がやってきた。

 1回生2人は全く未練はないようであったが、自分としては晴れた日の綺麗なヌバンを知っているだけに残念であった。

 11時半ごろに出発し、すぐに地図上の危険地帯につく。去年強引にへつって伊藤さんに怒られた場所だ。審議の時にも釘をさされていたのでおとなしく潮待ちする。

 30分ほどで通行可能なくらいになり出発する。思ったよりも浅くて下を簡単に通過できた。

 その後20分ほどで崎山湾につく。ここには数年前から村を作ろうとしている人たちが住んでいて、おじちゃんとおばちゃんにさんぴん茶と黒糖をご馳走になる。

 おじちゃんのほうはかなりのヘビースモーカーであるらしく、クニとタバコの話しで盛り上がっていた。何でもタバコが切れると例え雨の中でも船浮まで買いに行くらしい。サバ崎の危険箇所をへつっているときにおちて死にかけたという話しを誇らしげに語ってくれた。本当にタバコが好きなら、それくらいしないとだめらしい。ちなみにイラク戦争の開戦を知ったのもここであった。

 この崎山村には50年程前には集落があったらしい。一度は深い森に覆われたこの村を数年前から木を切り倒したりして開拓しているということであった。

 30 分近く話し込んだ後、最後のCS点に向けて出発する。ここら辺の入り江は汽水帯になっていて、本州には無いマングローブの林が広がっている。丁度大潮の干潮時であったので、何の問題も無く通過できるはずであったのだが、ここで吉田が泥に埋まりかけるという事件がおきた。汽水帯の地面は泥状になっているが、大抵は靴が埋まる程度ですむ。しかし渡渉しようとした地点は地面がもっとゆるく、膝上くらいまで一気に沈んでしまったのだ。あとは、経験したものなら分かるとおもうが、右足を引きぬこうと、左足に力を込めると代わりに左足が埋まっていき、左足を抜こうと右足に力を込めると右足が沈んでいくといった行為の繰り返しで、気付くと吉田の身体は半分以上が泥の中に沈んでいた。樋口が笑いながら引っ張り上げたが、吉田の身体はセパからウエストポーチまで全身泥まみれでまさにベトナムの敗残兵といった具合であった。

 沢に入り水が出てきたところで洗ったが、彼のショックは思いのほか大きく、いまだに「俺は直登もへつりも好きだし、巻きも嫌いではないけど、足がいぼる(埋まる、はまるの博多弁)のだけはダメだ。」というほどである。

 そうやってセカンドを失いかけながらも沢に入り、アヤンダ川に抜けてケイユウオじいとシロの浜をめざす。このときすでに雨が降っており、先ほどの泥もあってコンディションは最悪であった。

 しかもこのルートはヒルが特に多いところなのだ。今回一番の犠牲者は樋口軍曹で、両足合わせると、計10匹以上のヒルが足に噛み付いていた。

 彼は出口さんから受け継いだ「オープンマインド作戦」を実行していたのだが、ここのヒルには効果が無かったようだ。この作戦は、ジャージのすそのファスナーを空けておくと(出口さんも樋口も壊れて閉まらなくなっただけであるが..)ヒルは逆に警戒して入ってこないという出口さんの独自の理論に基づいた作戦で、今回の合宿の前半にはなぜか効果があった。しかし合宿も最後の方になると、樋口がただ無防備なだけであることが、西表のヒルに知れわたってしまっていたようである。新しいヒルを発見するたびに、「オォーい、またかよ!」という樋口の悲痛な叫びがあたりに響き渡った。

 アヤンダ川からは一応道がついており、5時くらいに最後のCS地点であるケイユウおじいとシロの浜についた。変わった名前の浜であるが、その名の通り、ケイユウおじいと、その愛犬シロが住んでいたという浜である。今でも海の近くに彼らの名前の彫られた石碑が建っている。

 この5日目は行程のハードさや天候から見てもかなり悲惨な日であったが、クニはなぜか気に入ったらしく「今日が一番楽しかったです。」といっていたのが印象的だ。


旅の終わり

 長かった海岸歩きもついに最終日を迎えた。この日も各々自然起床で目を覚まし、10時ごろに朝食を食べる。昼飯を食べて出発するかもめたが、船とバスの接続の関係で下界に下りたとしても今日中にのはら荘に着くことは不可能だと分かり、結局食べていくことにする。干潮は2時くらいなので問題ない。

 しばらく時間をつぶした後、最後にはしりとりで時間を調整して昼飯のラーメンを作った。結局1時くらいに出発する。

 この日のコースには問題となるようなところは全く無かった。1時間ちょっとでサバ崎につく。ゴリラの形をしたゴリラ岩が綺麗に見えるところだ。天気もあまりよくなかったので写真も取らずに出発した。

 途中吉田の校長のものまねを聞きながら下山地点であるイダ浜を目指す。多分あそこだろうと目星をつけた砂浜が、だんだん近づいていき、ついに目の前に現れる。

 ここも去年と全く変わらない。間違いなくイダ浜だと分かった。林道を少し入ったところで下山宣言を下す。

 こうして長かった西表合宿も一応終わりを迎えた。


エピローグ

 合宿は終了したものの、その後の経緯も記しておこう。

 イダ浜に降りた我々は、船浮にある唯一の商店「ひるぎ」でお菓子を大量に買ったあと、定期船で白浜に向かった。

 結局バスが無いので後ゼロは決定であったが、「ひるぎ」しかないイダ浜よりも白浜の方が幾分ましな後ゼロライフを送れると思ったからだ。確かに白浜には飲食店もあり、我々は一週間ぶりに4人以外が作った飯を食べた。

 テントを張るところには迷ったが、各局バス停の近くに張ることにする。公園や駐車場も考えたが、地元民のことも考えるといくらかましであろう。

 翌朝8時くらいのバスでのはら荘のある大原に向けて出発する。宿についた後は、中日と同じでひたすら食べて寝ることを繰り返した。

 翌日石垣で打ち上げをしたあと、離島桟橋で野宿したのだが、ここではクニが酔っ払いに絡まれるはめになった。この日は我々を含め10人近くがここで寝ていたのであったが、その酔っ払いはなぜかクニに的を絞ったのである。起されたクニは「加門?」と寝ぼけていたが、あとはひたすらそのおっさんの話しに付き合っていた。

 他の3人も起きてこの話を聞いていたのだが、「俺がターミネーターだったら、フセインみたいな独裁者になる。」といった話しが印象的であった。しかもそうなったら自分は原爆でしか倒せないらしい。

 別に暴力的なことは言わないし、実際に危害を加えられたわけでもないので、寝たふりを続けていたが、いつまでたっても帰る気配がないので、結局は警察を呼んだ。

 もっともクニは一晩くらいなら付き合うつもりだったらしいが。

 翌日にパーティーは本格的に解散し、吉田は波照間島に、他の3人はスカイメイトでばらばらに旅立っていった。半月以上昼も夜も一緒にいた仲間とも、いよいよ別れるときがきた。始めに去っていった吉田とクニと握手をしてわかれた。買い物をしていると、樋口から一言「またな。」というメールが届く。彼らしく的確な表現であった。 


文責:齊藤
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