2002年度前期縦走面 高橋Party合宿

朝日連峰


【入山前 下界にて】
8月10日。全員仲良く京都に集合した。今回は珍しく全員で目的地に向かう。
 新潟で駅寝をし、翌朝からまた鈍行で鶴岡に向かう。朝飯を食べながら、昼頃には鶴岡につくかなあ…と考えていた矢先のこと。長いトンネルを抜けると、そこは雪国…ではなく、土砂降りの雨であった。バケツどころか風呂桶をひっくり返したような雨である。これが長い長い雨の鶴岡3連泊の始まりであった。
 昼過ぎには鶴岡に着いた。依然強い雨が降り、どうにも翌日の入山はできそうにないため、(いつものことだが)鶴岡の町を歩き回った。とはいえ、たいして大きな町でもない。2時間もすると、飽きてきた。翌日以降の天気も悪く、いったいどうやって時間をつぶそうか…。暗澹たる気分である。
 ちなみに、この4日間の行動記録をあげておく。涙なしには読めない。
11日 鶴岡市内をひたすら歩き回る。鶴岡の地鎮社である荘内神社を見つけ、賽銭を奮発、天候回復祈願。晩、花火大会。大きな花火で見ごたえがあるが、半分は雲に隠れていた。
12日 再び鶴岡市内。荘内神社に日参する。隣町のジャスコに買出しに行った者も。昼、食堂で朝日から降りてきた人(ずぶぬれのカッパ姿に驚いた)に話を聞く。「山の上は大嵐になっていた。入山はすすめない」との報告にかなりびびる。この日はいつまでも駅寝では精神的に破綻をきたしそうなのでユースホステルに泊まる。
13日 体調不良のため一時鶴岡を離れていた工藤が合流。しかし、翌日も天気が悪いためまた鶴岡観光。仕上げにもう一度荘内神社へ。ついでにひいたおみくじは大吉で狂喜するも、その内容は「一時の辛い不運に惑わされるな」。図星である。「これで晴れなかったら恨むぞ」と罰当たりなことを考えつつ、晴天を祈願(あとで考えるとこれが荘内の神様の不興をかった気がする)。1回生はボーリングをしていたらしい。

【0付】
 このように憔悴しながらも何とか入山のチャンスをうかがっていた私たちであったが、16日から天候が回復するとの予報を受け、14日にやっと0付をすることにした。苦節4日。長かった…。
 夕刻には入山口にタクシーで到着した。脇にはオートキャンプをしている人もいて、静かなキャンプ場である。知るひとぞ知る穴場なのだろうが、ひとつだけ問題があった。東北の山では必ずといっていいほど遭遇する、メジロである。東北のメジロは鳥のメジロではなく、アブの仲間。人の周りを飛んでは血を吸う厄介者なのであるが、血を吸うときに指す針が信じられないほど痛いのである。私はあちこちの山でいろいろな虫に遭遇しているが、これほど腹の立つ虫は見たことがなかった。東北の山、恐るべし。
 そんな中でも、清水は大量のメジロと格闘しながら黙々とペミにいそしんでいた。食当の鏡である。

【入山】
翌15日も予報どおり雨。この日は雨の樹林帯を延々と登るだけの行程。考えただけでやる気がうせそうな話であるが、翌日から天気が回復することを祈って登る。
 CS1の天狗小屋には12時30分着。竣工間もないきれいな小屋であった。
16日。天候はやはり回復傾向にあるのか、雨はやんでガスになっていた。しばらくは濃いガスで何も見えない状態が続いたが、だんだんとガスが晴れ、念願の青空までのぞいた。たかが青空と侮るなかれ。数日振りの青空に感動した私達は、「青空レスト」などと称してレストを1時間も取ったのである。このときの写真は、山でなく空の写真しかない。ビバ青空。
 12時には狐穴小屋に着いた。この日は以東岳までピストンに行く予定であったが、小屋に着いてもあまり天気はよくならなかったため、ピストンはカットした。とはいえ、小屋に着いてもすることがないため、どガスではあったが小屋の周囲を散歩していた。何より、同じ雨でも鶴岡で散歩しているよりは山で散歩するほうがずっといい。
 夕刻、予報どおり天気は回復してきた。思いがけず、以東岳に沈む夕日を拝むことができた。ガスが晴れ、一瞬の合間に見せた以東岳の夕日は、神々しささえ感じさせた。
17日。いよいよ主稜線へ。お花畑が広がる、広い稜線が印象的である。天気は予報どおり完全に回復し、やっと夏山縦走らしい眺望が楽しめるようになった。祈願のご利益があったようである。
 朝日連峰がどのようにして形成されたのか無学な私は知らないが、その地形は他の山域に比べ特徴的である。稜線上は非常に広く、だだっ広いお花畑が広がる「地上の楽園」といった風情であるのに対し、下を見おろすと、まさに「奈落の底」といった表現が適当と思われるような深い谷が刻まれているのである。飯豊や朝日の沢はゴルジュが発達し、また雪渓が遅くまで残るため非常に困難なことで有名であるが、それが自然に納得させられるような地形であった。
 独特の地形や、お花畑に目を奪われるあまり先頭に置いてけぼりを食らいながらものんびりついてゆくと、9時頃からまたガス。見慣れた白い景色が目の前に広がってゆく。3日間日参した祈願のご利益はこの日4時間で終わった。信心が足りなかったようである。
 2時半ごろには大朝日小屋に到着。さすがにメインピークだけあって人が多い。横のテントでは見慣れたフェルト底の靴を干している学生グループがいた。沢通しに大朝日まで登ってきたそうである。うらやましい…。メジロが多くて閉口したとしきりにこぼしていた。
18日。朝からうす曇である。天気がよくなりそうな気配ではあったが、日本の南洋上にすでに台風が控えており、日の出とともに出発した。
 ほどなく大朝日岳の山頂を踏んだ。山頂から月山を望めるとの触れこみで、私は楽しみにしていたのであるが、折からのうす曇の天気で展望は望むべくもない。心の目で見ると、大きな月山を望めた(ような気がする)。山頂付近は高山植物がまだ枯れずに残っており、アルプスでも滅多に見られないウスユキソウを拝めた。
 山頂を辞し、一目散に沢へ向かって降りてゆく。下山するにつれ気温は上がり始めてくる。気づかないうちに、夏を思わせる蒸し暑い天気になってきていた。あとから考えると、京都を離れて一番天気がよかったのがこの日だったように思う。
 沢まで降りてくると、つり橋が見えた。このつり橋のことは出発前から聞いてはいたが、針金に毛の生えたようなケーブルに丸太が載せられただけの、到底人が通れるとは思えない代物なのである。雪の重みで橋が壊れないよう、あえて細い橋にしたようなのであるが、高所恐怖症の私にとっては身の凍る思いである。不必要に揺れている(と私には感じられた)橋をこわごわわたる。
 ここから沢沿いにつけられた道を延々と下るのであるが、下山直前のこのような道というのは大体が暑くて、長くて疲れるだけである。ところが、この道の周囲には樹齢数百年のブナの大木がなす美しい原生林が広がっていた。夏の日差しが降り注ぎ、あたりは緑一色である。いつもは周囲の植生などには余り興味のない私であるが、このときばかりは心を奪われた。
 「終わりよければ全てよし」という言葉を思い浮かべつつ長い林道を歩いてゆく。目指す下山地の五味沢まではあと1時間ほどかと思われたとき、私たちを追い越した4トントラックが前方で停まった。車もめったに止まらない林道で、なんと逆ヒッチを成功させてしまったのである。荘内神社の神様がさすがにこれではかわいそうだと思われたのかどうかはともかく、私たちにとっては山で晴れるよりうれしいご利益であった。

【下山後】
 五味沢にある町営の温泉は竣工からまだ日も浅く、こぎれいで非常に快適であった。見晴らしは良いものの、同時に外からもよく見える浴場には閉口したが、そのおおらかさもまたよし。やっと合宿を一つ貫徹したという充実感と、鶴岡での見通しの立たない暗澹たる気分からの開放感で、そんなことはどうでもよくなっていた。
 夕刻、小国へ移動した。奮発して宿を取り、裏にある食堂(小国には飯屋らしきものはこの1件しかなかった)でささやかにビールで乾杯。合宿の貫徹と相成った。
 翌日、日程の都合で飯豊連峰を泣く泣くカットし、八海山に登るべく六日町へ移動した。しかし、運悪くここに台風が接近。とりあえず移動して進路を観察し、様子を見ることにしたが、夜半から大雨になった。翌日も見慣れた鉛色の空。荘内神社の神様のご利益もここまでであったようだ。新潟県は管轄外だったらしい。万事休す。
 鶴岡で4日間足止めを食らった私たちがもう1日六日町にとどまる気になるはずもなく、中途半端な形ではあったがここで合宿を終了することにした。夕刻、打ち上げ。不思議なもので、どんな合宿でもこれだけは中途半端ではなくしっかりやるものである。
 今回の合宿は異常ともいえる天候で延々と停滞を余儀なくされ、山にいる期間より下界にいる期間のほうが長いという散々なものであった。私自身にとっては悪天で入山を延期しつづけたのは1回生の西表以来であったが、そのときの不安で気の詰まりそうな気分が思い出され、翻って今年の1回生に対しては非常に申し訳ないことをしてしまったとおもう。春の合宿においてはただ好天を望むばかりである。
 個人的には、この合宿が学生最後の夏山行となったのであるが、締めくくりとしてふさわしかったかどうかはともかく、パーティーのリーダーとしてパーティー全体をまとめることや計画が計画どおりに行かないことの難しさを改めて身をもって感じたという意味で、充実したものであったのではないかとおもう。
 しかしながら、山行それ自身に不満を持ったのもまた事実。山はやはり天気がよくてナンボ。飯豊・朝日連峰は目下「私的行きたい山ランキング」第一位である。


文責:高橋
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